「執着」という名の依存症


世の中では自分を信じることが
良いことだと言われている。

だが、自分を過信するあまり
それが己への執着心を生み、
果ては、依存することになる。

その依存する対象は様々だが…

金に依存する、
物に依存する、
愛に依存する、
権利に依存する、
権力に依存する、
立場に依存する、

やれギャンブルだの、
アルコールだの、
ドラッグだの色々あるだろう。

執着する人は間違った方向へ進み、
依存は人の歩みを狂わせる。

何かを信じるのは自由だが、
やはり信じることに重きを置くと
執着→依存の流れになる。

もはや身軽でなくなった連中は、
往々にして柔軟性を失い、判断を誤る。

「これだけ頑張ってきたんだから」
「ここでやめたら努力が水の泡になる」
「何事も粘り強く、辛抱強くやるのがいい」

こういう囚われに陥る人間は
非常に脆く、危うい。

粘り強いことなんて
執着心を生むだけだから足かせでしかない。

それなのに教育では、
努力、根性、忍耐、辛抱、粘り強く、
みたいなことを植え付ける。

人生において大切なのは、

潔さ、
諦め、

この2つなんじゃないかな。

過去の事例で恐縮だけど、
自分の場合、利益の出ているビジネスを
2つ捨てたことがある。

それは世間で言うところの「損切り」
みたいなカッコイイものではない。

ただ単に、生活が安定し出したら
つまらなくなって捨てただけ。

それ以外に理由はなく、
ビジネスの目的が金じゃないことに
気が付いたから2つとも捨てた。

通常であれば利益の出ている
ビジネスを2つも捨てるなんて
世間的にはあり得ないし、
普通なら取っておくだろう。

だが、自分の場合は人生の足かせになる、
あるいは重荷になるようなものは
たとえ、金になろうが要らない。

そうやって損得勘定から解放されることで
人間は精神的な自由を獲得していくのだと思う。

それでも金が欲しい人は稼げばいい。

これもやはり金やビジネスへの
執着心や依存心がなかったからこそ
捨てられたのだなと。

ちょっとでも「違う」と
本能が訴えかけてきたら
捨てるのが自然の摂理。

自然は循環するのが当たり前だからね。

違和感をそのままに
損得勘定だけで生きれば
人は必ずしっぺ返しを喰らう。

いま、世の中で戦争や差別が起きるのは
一つのことを信じ過ぎた成れの果てだろう。

何かを信じるのは自由だが、
それが崇高なものだと錯覚すると
それ以外を排除しようとするのが人間。

自分の価値観と相手の価値観が違うと
それをコントロールしようとしたり、
なぜか、同じに統一させようとする。

これが個人レベルならまだいいが、
国レベルになると戦争にまで発展する。

結局は、個人の弱さがそのまま
国を通して反映されただけのこと。

現代はまさに、
一つのものだけを信じることの危うさ、
これらを体現しているのではないかと思う。

それよりも、一つのことを信じるより、
潔く捨てられる身軽さ、
土壇場で諦めることができる柔軟性、
こういうものが現代人には必要ではと思う。

文明が発達するとともに、
人は得ようとし過ぎて
すべてをプラスにしようとする。

そろそろ引き算で、
マイナス、マイナスと、
少し過去に戻ってもいいのではと
思った。

過去に戻るってのは
「あのときが良かった」みたいな
依存的な話じゃないよ。

いい意味で戻るってことだ。

旧石器時代ぐらいまで
遡ったら面白いのにな。
笹崎武蔵

古神道や神社について、参拝した経験に基づき、マニアックな見解を述べていきます。神棚、しめ縄もすべて手作りで、神仏にまつわる体験やスピリチュアルな話もブログやYouTubeにて公開中。

実は本業「人生相談屋さん」です。(8年目)
今風にいうならコーチングをしています。

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