笹崎武蔵

実はコーチ歴7年。無資格、無所属、無集客の三拍子理論を初めて打ち出したコーチングしないをコーチ。売れないコーチに売れる秘密も教えるコーチングアドバイザー。生き方、遊び方、稼ぎ方、この辺りが得意分野。

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自分磨きはウソ

なんかよく自分磨きをするぞー!エイエイ、オー!みたいなテンションの人を見かけるけど、大丈夫かな?って思う。暑苦しいよね。社員研修じゃあるまいし、京セラドームで講演会やるわけでもないのに気合い入れ過ぎなんだって(笑)そもそも何のために自分磨きをするの?社会的に有利なポジションに行って、あわよくば少しでも稼げる自分になりたいってか。それがあなたのいう成長だとか、自分磨きだとしたらかなりショボいよね。ただの自己中ってか、利己的過ぎてサブい。まぁ、表現的には間違ってないんだけど、魂を擦り減らす行為をしてるのだとしたらそれは自分磨きではなく→擦り減らしなんだよね。これを成長って言ってんだよね、みなさんは。成長とは、将来の理想的な自分に近付くこと、または近付いていくことをいう。みたいなものがあったとしたら、これって退化じゃないかな?磨いて光るのは石ころやダイヤモンドの原石ぐらいで、人は磨いても擦り減るだけ。人間は磨くものではなく成長していくものだ。動物も植物も磨かれていくことで大きく育ったり、美しくなるわけではない。ただ本能に従って、自然の流れに導かれながら成長しているだけだ。この定義でいくと、成長することは磨いて磨いて理想的な姿になるってのはおかしいんだよ。成長するってことは、暴走しがちな理性や知性を抑えつつ、人間の五感や身体をフルに使って自然界から学んでいくことだと思う。そのためには本能の声に耳を傾けて心の思うままに動いて生きることだ。小手先のテクニックや知識を付けて要領良く生きるということは、自然からはどんどん遠ざかるよね。それは成長でも何でもなく、俺から言わせれば退化でしかない。人は自然、本能に従って生きるときのみ心の平常を保つことができる。自分磨きに精を出しても心が不安定であるなら、それは成長とは言わない。以上のことから考えると、自分磨きとは、ウソである。ということが言える。ps' あ、そうそう、自分磨きと言えば、時間がまとまって取れるこの連休にじっくりセッションでもどうですか。あなたの現在や未来、どう捉えて行けば良いのか?ガッツリとセッションをすることでその答えが見えるかもしれません。まぁ、ピンと来る方は見てみてください。

自分らしく生きてるか?

自分が一人の人間として自分らしく生きるには大人の素直さが必要だ。大人の素直さってのは、子どもの素直さより難易度が高い。もともと生まれた頃はみんな素直だったんだろうけど、生きる過程で魂にゴミが付く。そのゴミが魂に付くと、素直だった人でも頑固になったり、気難しくなったりする。そうやって歳を取ってしまうと素直さがなくなり、既成概念=脳統一一貫性に頭がやられる。過去からくる自分の考えで目の前のことをああだ、こうだ、言うようになるといよいよ老害の始まりである。じゃあ、自分らしく生きるとは?なんなのか。自分の心の感じるままに生き、それで365日過ごすことだ。人によってそれを叶えるにはいろんな制限やしがらみがあるのだろう。でも、自分の心の感じるままに生きられるのであれば、その制限を外すための努力はしたいよね。自分らしく生きるには、いろんなルールや制限を守りつつ、外せるところは外して自由にやる。そうなってから、本当はどう生きたかったのか?自分はどんな生き方がしたかったのか?それを考えてみてもいいんじゃないかな。その気持ちに真っ直ぐ向き合うことがピュアであり、大人の素直さだと思う。あなたは自分らしく生きてるか?大人になってヨロシクやろうと思えば、それなりの予算や時間もいるだろう。でも、そういったものを解決できる手段があれば試した方がいい。自分の場合はたまたまそれがコーチングだった、ってだけ。コーチングを手段にいろんなことを展開して昔よりは制限が外れたが、、、まだまだ自分らしく生きるってのにはほど遠いな…。今は自分らしく生きることより、自分らしく生きたい人を手伝う側にまわったから、自分のことは後で構わない。ってか、それをすることが自分らしく生きることだと気付いたから飽きもせずコーチングを続けてる。そうしているうちに、他のこともポツリ、ポツリと叶いだしてきた。あなたは自分らしく生きてるか?

頭数に入らないSNSの「いいね」は要らない

SNSでよく見かけるけど、頭数に入らない「いいね」の人っているよね。なんていうか、どこにでも、誰にでも「いいね」しまくってて、晩年他人の人生で時間を消耗してる的な。なんでそんな影響受けちゃってるの?受け身なの?ってなぐらい、やられてる。べつに影響を受けるのは構わないけど、いつになったら「受信者」をやめるの?って。人生は攻めてなんぼだと思うけどな。やはり発信者側にならないと見えない景色もあるし、そんな受信者が100人集まって「いいね」をクリックしても何の価値もないわけで。それよりも、どうしたらこの人に「いいね」押させられるかなぁって考えた末に発信して狙った「いいね」をもらうほうが価値がある。それがたった一人であってもね。というより、SNSにおける発信は100人、1000人に言葉を届けるのも大事なんだろうが、一人に深く刺さるコンテンツが出せれば勝手に何人かには刺さる。なので、頭数に入らない「いいね」を掻き集めるより、狙った一人をスナイパーの如く撃ち落とせるほうが発信者側としても意味があるんじゃないかな。いろんな人に好かれようとする内容のツイートは読んでて面白くないし、自分の耳を塞ぎたくなるようなことを発信してくれる人のほうが信用できる。尖っているとかそういう意味じゃなくて、しっかりと自分なりの見解や真実を発信してくれてるのだなぁと思うから、目を背けたくなるような内容なら尚良い。自分もそういう発信を心がけていきます。

偏った人間は嫌われるのか?

時々、こんな話を聞く。偏った人間はダメなんじゃないか?偏ってるとみんなから嫌われるんじゃないか?まぁ、何がどう偏ってるのかにもよるが、まず、そういう人は嫌われる経験が少ない。だからもっとみんなから嫌われてこいって思うのが本音。だって、他人に合わせたり、迎合してるヤツ見るとキモいもんな。それでいくと、俺も偏ってるのだろう。まぁでも、大前提として、生き方のバランスや人生に対するスタンス、あるいは心構えがキチッとしてて、軸のある人間は大いに偏っていいんじゃないかな。そうじゃない人間が偏ってるとサブいって言われるし、嫌われたくないのに、嫌われちゃう現象が起きるよね。人生や人間関係とは不思議なもので、嫌われたくないって言う人ほどどんどん嫌われていく。反対に、嫌われてもいいというスタンスでいると、これが嫌われるどころか、好かれたりもする。精神的な自立があるから、それが雰囲気や情緒に出るのだろうな。これは人間関係に限った話ではなく、情報発信や人生全般にも同じことが言える。人に合わせながら気負って偏ったらダメだなと思う人間は正直、サブいと思う。でも、自分をメタ認知しながら偏れる人間はカッコイイと思う。だからバランスが取れてる人は大いに偏ったらどうかな?というのが、俺からの提案です。

退屈な日常があなたをダメにする

人って何もしないで過ごしてると、あっという間に日常に飲み込まれて、何も考えずに生きられる世界に流されていくよね。思考停止っていうのかな、人間ってか、脳は変わることを極端にイヤがるからね。そういう生き方が悪いとは思わないけど、人生が退屈になる最大の原因だよね。やっぱり外に出るなり、風の当たるところに身を置かないと、新たな流れは起きないもんな。不安もなければ、心配事もない。良くはないけど、悪くもない。そんな感じで当たり障りのない退屈な毎日がそのまま続いて、歳食って人生が終わるのってつまらなくないかな?大きなお世話だと思うけど、俺はそういう過ごし方に違和感を覚えるし、心配事や不安がなくなると逆にそわそわするかな。攻めてないなぁというか、受け身で逃げてるとそうなりがちだもんね。そしてそういう生き方で、実は失うものがあるということに気付いてない人が多い。そうやってぼーっと過ごしてると、人としての魅力がどんどん失われ、人間的な味や深みが出ないまま年齢だけ重ねてしまう。若いってことは素晴らしいことだけど、歳を重ねるってのは、その経験を重ねた人にしかわからない世界や情緒がある。そういうことを学ぶのが、もし人生だとしたら、それを放棄してしまう生き方はどうなんだろうか?と思った。

ネットで情報を集めまくるインプットオタク

たまーに、若い子なんかで話してるときに、「あ、それ知ってます!」「それって▲▲ですよね!」「〇〇さんが言ってました!」みたいなことをわざわざ報告してくるヤツがいる。べつにいいんだけどさ、でもそれってどこかで聞いてきたり、ネットで見てきた情報だよね?自分でやって確かめてないじゃん。「だって教科書に書いてあったんだもん!」が許されるのは小学生までだぞ(笑)まぁそれでも子どもがそれ言ってきたらわたしゃ怒るけどね。ビビるのが、野郎(若い男)でそれを言ってくるヤツがいたからキミはトレーダーにでもなるの?って言っておいた。何が言いたいのかっていうと、テメーで知りもしない、やりもしない、試してもいない、そんなことをよく人に話したり、あたかも体験したかのように話すよね。こういうホラ吹き野郎は大抵、人生経験が浅く、同じような連中でつるんでる。経験がないから顔見ればその浅さがわかるし、薄っぺらいわりには卑しいから人相があまりよくないんだ。でも、こういう人って多いでしょ?まぁ自分の周りにあまりいないし、近付いてきても勝手に火傷してフェードアウトしてくからその後の行方は知らないけどさ。自分も一応ネット上では情報発信してるし、コンテンツも出してるから偉そうなことは言えないけど、ただ、一点だけ注意してることがある。人生の実践ありき→壁にぶつかる↓ネットや本で調べる(専門家に聞く)↓また実践する→なんらかの成果が出る当たり前だけど、こういう経験をもとにエビデンスなんかと擦り合わせて間違いないだろうという情報しか基本は出さないし、話さない。ましてや、見た、聞いた、誰かが言ってたみたいなことは間違ってもやらないよね。たとえ、エビデンスのないことであっても自分で当たりをつけたことしか話さないよ。説明はできないけど、自分の勘ではそんな気がするっていうのあるよね。そんな感じ。知りもしないのに知った気になり、やりもしないのにホラを吹き、実践もないのに体験した気になる。こういうヤツがビジネスをかじったり、情報発信をしてると痛いしサブいよね。こういうのが、俺の一番嫌いなタイプの人間かな。

獲物の立場になって考えるという視点

なにやらモンゴロイド(黄色人種)の狩猟民族にしばしば見られる、狩る側が獲物と視点を入れ替えることと、パースペクティブという概念が文化人類学で注目されていると、本で見かけたけど、その話はいいや。直訳すると、パースペクティブ(視点)を狩る側と獲物側で交換することで狩猟がうまくいくとか。狩猟をする方は、自分がほしい!とか、獲りたい、狩りたい、みたいな感じで欲にまみれているとうまくいかない。一方で、慣れてる熟練の狩猟民はパースペクティブの交換が自然できるので、獲物の気持ち=事情を考えるようになる。そうなると、山での獲物と接触する回数が増え、狩りの成功率も高まるとのこと。なるほど、これは現代に置き換えるとマーケティングと同じ意味かもしれない。例えば、あなたがブログを書いたりTwitterやSNSで情報発信をしているビジネスパーソンであれば、自分の伝えたいことを、相手の欲しい情報やものに置き換えて伝える方が伝わりやすいだろう。書いてみると当たり前の話だが、ブログなんかも初心者のうちは書くこと伝えることが目的になり、いつしか、どう見られるか?に意識が囚われる。そういう文章はしばしば自分視点で、「ぼくが、オレが、私は」というフレーズが何回も出てくる。これは読む側からすれば、「ああ、自分の話をしてるのか」と言った具合に、よほど興味をそそるものでなければ飽きられるし、そうなると、あなたが求めるようなビジネスにはつながらないかもしれない。冒頭で書いた、狩猟民族のパースペクティブなる概念は現代におけるコミニュケーションでもかなり使える概念、視点だと思ったのでブログにまとめてみた。「むかし人間は動物にもなれたし、動物は人間にもなれた」北米の先住民の詞にこんなものがある。今回のブログをひとことでまとめるなら、「他人の気持ちになって考えなさい」かな。

人生は満たされたら終わり

人生は満たされたら終わりだなぁ、と思ってこのタイトルにした。ああ、終わりってのは最高だぜ!って意味じゃないよ。満たされたヤツはみんな揃いも揃ってつまらない顔をしてるってことね。幾ばくかのお金を手にし、時間にも余裕があって健康な身体もある。そんなんで「私はいま、心の底から本当に満たされてます」って言えるのかな?そういうヤツは自分がいま、一番つまらないところに立っているということが見えてない。あるいは気付かないのか、気付いてないフリをしてるのか…まぁ、ピンボケ野郎の話は置いといて。いずれにしても、人生は「誰と」が一番大事な気がするな。刺激を与え合える仲間や、腹を割って話せる相手がいないと面白くないのは当たり前の話だ。つまり、人生はいつでも狩りのように主体性を持って面白いことも刺激も取りに行かないと、誰も与えてくれない。受け身な人から魅力や色気を感じないのはそういう節もあるだろう。攻めの姿勢には、時折り余裕すら感じる。俺はそういう人間でいたいし、そういう人たちが好きだな。どこかのボンボンのセガレで遊びに誘ってくるヤツがいたけど、アイデンティティのない人たちの遊びってなんであんなにつまらんのかね。金を払って、受け身な遊び方ってか、生き方ほどくだらないものはない。それをInstagramにせっせと投稿してるのを見ると、「ああ、コイツもか」ってなる。こういう連中は発想にも品がないし、遊び方も三流だ。金以外で遊ぶ方法や生きる術をもっと学んだ方がいい。人生で実践がないヤツは口先だけで、足の先から頭のテッペンまで品がない。つるんでる奴らもいい歳こいてイキガッた若造の集まりときたら、接点はないのでさようなら。って感じだよね。あえて金を使わない、自分の身体を積極的に駆使した遊びや生き方が俺は好きだな。生きるってことは満たされることじゃなくて、生きてる実感を得るためにリスクを冒したり、ときには身体を追い込んだり…死に近い体験をしたり、そういう時間の過ごし方で発酵してくるものがあるからね。だから刺激を求めて度が過ぎると、怪我したり、傷付いたり、自分の枠を超えたことをやるから痛い目にも遭うけど…(笑)それが面白いじゃん。この感覚をわかってくれる方はそれなりにいると信じてます。

腐った野菜のような人生を歩むヤツら

なんか、ことあるごとに人のせいにしてるヤツがいるけど、それって全部お前のせいなんじゃないの?って思うことが増えたな。被害者ぶってさ、アイツが!コイツが!って抜かしてるけど、人生は全部自分持ちだろうに。私はこれだけやったのにっ!!あの人は全然やってくれない!ってか。でも関わったの自分じゃん?じゃあケツぐらい拭けよ、自分で。なに人のせいにしちゃってんの、いい歳こいてさ。そういうヤツに限って後ろでコソコソつるんで人の悪口を言ってみたりいろいろしてるもんな。まぁどうでもいいけどさ。俺のこともSNSやブログに書きたいならこうやって好きに書いたらいいよ。かける勇気があるとは思えないけど、書いたら逆に褒めに行くよ。そんなもんだろ、ネットでつるんでる連中なんて。現実で何もできない実力のないやつらが集まる場所だもんな、SNSなんて。媚びたり、隣の芝生を覗いたり、一喜一憂したり、腐った野菜なような人生を歩んで、楽しいかい?オモテではいい人ぶって、うしろでは汚いツラして。見栄えさえ良きゃ、その他は隠してどうにかするって算段だろそういう人は。だから汚いんだよ。堂々としてないってか、コソコソしてつるんで、自分を守って。屁でもないものを大事そうに抱え込んじゃってな。だからプライドが高くていちいち過敏に傷つくみたいな。くだらない。

「逃げ癖」のついた暇人の日常

以前までは何かを志していたのに、それを何かの拍子にピタッとやめてしまう人がいる。そういう人間からはフェロモンを感じないし、色気もなくなるよね。あきらめることが悪いとまでは言わないが、それでも今日できることを明日、明日できることを明後日、明後日できることを1週間後…1ヶ月後…1年後…寿命で終わり。みたいな。先延ばしにするヤツは失敗が怖いから、どこかで保険をかけて、何もしなくなるから逃げ癖がつく。逃げ癖がつくと、やらない自分が当たり前になるからその人間からは軸がなくなる。結果として、フワフワしたり、チャラチャラしたり、地に足のつかないパッとしないヤツになる。そういう人間はどこか落ち着きがないし、絶えず他人の目を気にしながらキョロキョロしているから挙動不審だ。軸が定まらないから頭のなかもとっ散らかって言語も意味不明なことを連発する。たまたま人に連絡をよこしたかと思うと、要件は?と聞けば「特にない」とか抜かしやがるから、人からは嫌われる始末。こういうヤツってつるむ仲間もいないからお友達ごっこみたいなのが好きだよね。本音でもないのに誰かと一緒にいてむりやり安心する、みたいな。バカなんじゃないのか。思うに、こうやって承認欲求をこじらせるヤツはセックスレスなのかなと。いい歳こいて他人に認めてもらおうと空回りするぐらいなら、パートナーを愛し、エロに目覚めてセックスすればいいものを…。なぜか、外でチヤホヤされたがるから意味不明な行動に出る。でも大体そういうヤツはモテない。昔から相場が決まっている。例えば、女性にしてもモテる人やイイなぁって思う人は落ち着いてて、余裕がある。だから色気も出てるし、フェロモンも感じる。そうじゃないヤツはいつもキョドってるからキモいし、誰からも相手にされなくなる。不幸癖が抜けない人はゴールもないし、ゆえに学びもない。学ばないということは経験をしないから魅力がなくなる。魅力がないということは、空回りした自分磨きで勘違いするからますます誰からも相手にされなくなる。学ぶことをすっぽかす人間は、暇になり、自分を見失う。こうやって人は運気を落として、人生を負のスパイラルに突入させてしまう。だから、そうしないためにもゴールはあった方がいいよって、散々言ってきたつもりだ。それでもそうしたいのなら、ご自由にどうぞ。としか、俺には言いようがない。